昨日は組織論と文化人類学から個人が社会とどの程度距離を取って生きていくかを考察しました。今日はもう一歩話を先に進めて、社会や組織による「手のひら返し」について考えてみます。ネガティブな内容ですみません、こんなことを考えるのにも理由があるんです。
コロナウイルスをきっかけに世の中はデジタル化に踏み切り、前例踏襲され続けてきた制度や慣習にもザクザクとメスが入れられるようになりました。それによってひとりひとりが行動と考えをあらため、価値観そのものにも変化がでてきたように思います。効率化を進めて本当に価値のある仕事をする。素晴らしいことだと思います。
しかし、僕のような器の小さな人間にはどうしても目に入ってしまう光景があります。それが「手のひら返し」です。僕の職場はその昔、効率化よりも人を思いやる配慮や共感力が大切にされており本当に温かみのある環境の職場でした。とても居心地が良く素敵な職場だったと今でも思います。ただその反面、僕が非効率に思えることを指摘して改善を提案しても(僕はそういうタイプの人間です)対人関係のことを指摘されて却下され𠮟責される。そんな側面もありました。
そんな思いやりのあった職場で今行われているのは、社会のデジタル化に急に対応し、効率的に働けない人にバッシングを繰り返す「手のひら返し」です。その昔に自分が𠮟責されていたことが現在の正義にとって代わり遂行されている、なんだかこの光景は少し醜く感じてしまいます。指摘された同僚たちは、真意は知りませんが、追い詰められて嫌になってしまったのでしょうか。ここ数か月で何名も退職することになってしまいました。
さて、それでも社会とは、そして人間とは残念ながらそういうものです。そしてこれは昔からそうだったようです。音楽と2冊の本から考えてみようと思います。
裏切られたら聴きたい歌と裏切られたら読みたい本
大人になればなるほど、こういった裏切りを伴う現場に遭遇することが増えてしまいます。悲しいことです…。しかし嘆いている隙に世の中はどんどん移ろっていくため、こういう時に安心を得るには先人たちの経験や思想から学ぶことが何よりです。音楽と本から「手のひら返し」に備えるヒントを探ってみます。
「転身」昨日の友は今日の敵となる
詩人の高田渡氏は自身の楽曲「転身」のなかで、皮肉を存分に加えながらこう歌い上げます。
「かつての組合書記長 いまの会社重役 組合員をおだてた演壇で社員に訓示する 180度回転πr 昨日の友は今日の敵となる」
『転身』/高田渡
1969年に発売された曲で、当時は労働組合の書記長だった人が数年後に会社の重役にころっと転身していることが多かったようです。正義感というのは強い芯を持たないとこれ程醜くなってしまうのかと、教訓になるような詩です…。この様な一歩引いた目で世の中を的確に捉えたいものですね。
「服従」エリートたちの手のひら返し
ミシェル・ウェルベックの「服従」。この本を「手のひら返し」の文脈で語る人はあまりいないと思いますが、本書では没落していく西欧人がイスラム教に改宗していく様子が描かれています。
文庫版のあとがきは作家の佐藤優さんが担当しており、こんな印象的な一節を書いていたので引用したいと思います。(佐藤優さんは元外務省でロシアの日本大使館に在籍していました)
『ソ連崩壊後、忠実な共産党員だったモスクワ国立大学や科学アカデミーの教授や研究者の大多数が、一瞬にして反共主義者になった。~中略~『服従』を読むと人間の自己同一性を保つにあたって、知識や教養がいかに脆いものであるかということがわかる。』
『服従』 p.324
「ためらいの倫理学」「ためらう」ことに意味がある
最後に内田樹さんの『ためらいの倫理学』という本を紹介します。ちなみにこれが内田樹さんのデビュー作です。
第二次世界大戦時、ドイツはフランスを占領し、ユダヤ人や抵抗するレジスタンスのフランス人を大量に虐殺しました。しかし、ドイツが大戦に敗れると抵抗していた人たちだけではなく、かつては黙ってドイツに従っていた人びとさえもころっと立場を変えてドイツに協力した人たちの粛清を始めたのです。
これが歴史に残る「手のひら返し」です。そして、当時レジスタンス運動に参加していた有名なフランス人作家がいます。『ペスト』の著者アルベール・カミュです。
揺れ動く社会におけるアルベール・カミュの心情を「ためらいの倫理学」というタイトルで内田樹さんが深く考察している一冊です。当時はいかなる正義も簡単に覆ってしまう何が起きてもおかしくない極限までに不安定な時代で、作家カミュは大いに揺れ動きそして「ためらう」のでした。この本では「ためらい逡巡することそのものに意味がある」という、本当に大切なことを丁寧に教えてくれます。
それぞれの「手のひら返し」対策
どうしても人間は組織や社会に翻弄されてしまうようです。それは歴史が教えてくれています。これからも多くの「手のひら返し」が待っているはずです。(嫌になりますね…。)
そんななか個人としてはどうすれば良いか。達観した詩人の様に一歩引いて世の中を皮肉りながら焼き鳥屋でビールでも飲んで過ごすのも素敵ですね。没落することを受け入れて思想を服従に任せてしまうのも楽かもしれません。そして「ためらい」そのものに価値を見出してくれる思想家がいるならば、報われなくとも自分の正義感に従って「ためらう」人間でいたいとも思います。
さて、結局答えなんて出ません。僕のもやもやを最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。明日は仕事とは関係のない話を書きたいと思います。
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