読書と飲酒の両立|学びそして忘れる

雑記
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長年読書を最大の趣味としています。もうひとつ、酒を飲むことも趣味のひとつです。いずれも日常と化した行為で僕の人格形成に多大な影響を及ぼしています。

しかしこの2つの趣味はトレードオフの関係にあり、一方の欲望を満たすと一方の欲望が満たせなくなる構造(?)になっているように思います。

読書と飲酒はトレードオフ

トレードオフ(英: trade-off)とは、何かを得ると、別の何かを失う、相容れない関係のことである。

Wikipediaより引用

冒頭で書いた通り、僕にとって読書と飲酒はトレードオフの関係にあります。いつも貴重な時間をこの2つのどちらに費やすべきかで悩んでいます。

読書について

僕は速読などできず、じっくりと内容を理解しながら本を読むタイプです。選書も比較的分厚い本を選ぶことが多く、読書には多大な時間を投資していることになります。

加えて、一冊の本を読むとその本に関連する別の本を読みたい気持ちが高まります。また、書店にもよく足を運ぶので、その際に目に留まった本を読みたくなる気持ちも当然高まっていきます。いわゆる積読本が増えていきます。実際に購入せずに積読している本だけでなく、自分の脳内にある「いつか買って読む」リストを積読に加算するとその数は膨大です。そして読んだ本の冊数よりも、「いつか買って読む」リストの方が増加数が多いです。

つまりこの欲求は僕から読書欲が無くならない限り、一生満たされることはない欲求ということになります。

それでも、多大な時間を費やしたとしても人生において読書から得られるものは非常に多く、投入した時間と言うコストに対してそれ以上のリターンを得ている実感があるので、これからもたくさんの時間を読書に費やしたい、要するにもっとたくさん本を読みたいといつも思っています。

飲酒について

一方で僕はお酒を飲むことも大好きです。飲む種類は主に日本酒ですが、夏にはビールや白ワインを好んで飲みます。

飲酒が読書と異なっていることは、読書が知識を得る行為であることに対して、飲酒は酩酊により得た知識を手放す行為=忘れる行為であるということです。読書に比べて飲酒が将来の役に立つということは少ないです。もちろん人付き合いにおいてなどは別です。飲酒で得た着想が仕事やプライベートでのクリエイティビティに繋がった、というケースは天才作家のエピソードの様な場合以外には聞いたことがありません。

多大な時間をかけても目の前の酒と自分の人生の時間が、投資ではなく消費に周ってしまうだけです。読書に対して飲酒は費用対効果が少ないと言えます。

読書と飲酒の共通点

そんな対照的な2つの行為をいずれも続けているのは何故か。どっちが好きなんだ、何を重要視しているんだ、と自分でも良く考えてしまいます。

酒を飲むという行為が読書と共通しているのは「時間を費やす」ということですが、せっかく時間を費やすならば費用対効果の高い読書に全投資することが経済合理的であると頭では理解できています。

それでも、ひとつだけ共通点を見出すことができます。

それは、読書においての選書にもよりますが、飲酒も読書も「現実から離れる行為である」ということです。少なくともそういう側面があるはずです。

読書が現実から離れる行為であることは、フランス人作家ウェルベックが著書『プラットフォーム』で書いた下記の文章に顕著に表れています。

読書のない生活は危険だ。人生だけで満足しなくてはならなくなる。

『プラットフォーム』ミシェル・ウェルベック 河出文庫P.104

飲酒が現実から離れる行為であることはイメージしやすいはずです。中島らもが『今夜、すべてのバーで』という小説の冒頭で古代エジプトの小話を引用しています。

「なぜそんなに飲むのだ」

「忘れるためさ」

「なにを忘れたいのだ」

「・・・・・・。忘れたよ、そんなことは」

(古代エジプトの小話)

『今夜、すべてのバーで』中島らも 講談社文庫

まとめ

要するに、現実世界だけで生きていく強さがないということです。そのうえで、少しでも未来に希望を持つべく読書をしていますが、飲酒の様に手っ取り早く現実から逃げてしまうという弱さもあるわけです。

しかし所詮本記事は、真面目に自分のことを分析した「酒呑みの言い訳」に過ぎません。最後まで読んでくださった方、貴重な時間を費やしてくださりありがとうございます。

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最後に

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